由緒書によれば、当髙橋家は、応永2年(1395) に京都の聖護院から院号 「福寿院」 を下賜されて本山派修験になったと伝わるが、同じ年に出羽国(山形県)の羽黒山から移り住んだという伝承もある。江戸時代における福寿院の活動は、同じ会津の本山派修験と同様に、大先達であった滝沢村の南岳院による支配を受けていた。さらに、例えば近世最後の修験であった龍嶽は、一箕山泉明院(滝沢寺)で加行し印可を受けるなど、地域における重層的な組織のなかで活動していた。
 福寿院は、在所である小綱木村に加えて、近隣の大舟沢村と真ヶ沢村を霞(檀那場)として活動したが、仏像の寄進元や記録された勧進先の村はさらに広範囲に渡っており、より広い地域から信仰を集めていたと考えられる。加持祈祷などの具体的な活動が垣間見える資料として、龍嶽が伝授された符呪の内容を記した「切紙」には、安産や子授け、火伏せや疫病除けなどの呪法がみられ、地域の暮らしに密接して様々な要望に応えていたことがうかがわれる。

金欄地結袈裟補任状宿採燈護摩法・伝授書
金襴地結袈裟補任状 寛政6年(1794)
福寿院・養元が京都の聖護院より下賜されたもの。金襴地の結袈裟を着用することを許された。
宿採燈護摩法・伝授書 嘉永3年(1850)
大先達の南岳院が福寿院・龍嶽に与えた採燈護摩の修法と伝授書。龍嶽は同じ南岳院配下の一箕山泉明院で加行を受けており、採燈護摩法は師である泉明院の修験・観章により写されたことが記されている。
霞附之祈祷切紙 弘化4年
霞附之祈祷 元文2年(1737)
南岳院が支配下の修験にあてた文書で、本山派修験が行うべき祈祷や祓についての指示。
屋立(建築儀礼)、火伏、祭道(葬儀の祓)、湯殿山・飯豊山火注連(参詣前の忌籠りの別火精進)などが基本的な宗教行為として示されている。
切紙 弘化4年(1847) 
切紙とは秘儀などの伝授にあたりその内容を記したもの。龍嶽が「一箕山道場」(泉明院)から授けられたもので、木箱に約40点が確認された。嘉永3年の伝授書にある加行の過程で伝授されたものと思われ、修法の内容は多岐にわたっている。
切紙虫歯呪法
切紙の例



虫歯呪法 弘化4年(1847) 
虫歯治しの呪法に関する切紙(上)と実際に行ったと思われる記録(左下)。梵字の書かれた紙を「五ツニ畳ミ歯ニテ噛ミ口中ヲ洗ヒ次ニ口伝」、「鉄金ノ四角ナル弐寸釘ヲ用ユ但西洋釘ハ効ナシ」などと方法が部分的に記される(右下)。左下の資料には「下歯左ノ方極入リノ奥歯」「弐拾七歳女」などと記されており、畳み皺や多数の穴、汚れ方などから、実際に呪法に使用されたものではないかと思われる。
版木 嘉永3年・5年 幟旗大雨が降ったことを記した板
版木 嘉永3年・5年(1850・1852)
福寿院・龍嶽が製作した祈祷札の版木。それぞれ「御祈祷之札 福聚院」「五大力菩薩欽白御守護息災延命祈」と彫られる。
龍嶽は近世から近代にかけて盛んに活動していたと思われ、同家の資料に最も多く名前がみられる。
幟旗 明治19年(1886)
福寿院・龍嶽が、霞である3つの村からの依頼を受けて祈祷を行った際の幟。龍王に祈り、雨・雲・雷などの文字が散りばめられていることから、雨乞いの祈祷と思われる。
結果として雷が鳴り大雨が降ったことが墨書で記されている。

回峯勧進帳福寿院願書 寛政9年清書画像
回峯勧進帳 文政5年(1822) 
聖護院により大峰入峰を仰せ付けられた福寿院・元隆が、檀家に対して官位取得金や旅費等の勧進を行った記録。霞である3つの村をはじめ、広く近隣を廻っている。修験者はこうして入峰修行を果たし、本山から様々な免許を受けた。
福寿院願書 寛政9年(1797) 
福寿院の霞である真ヶ沢村の久三郎という人物が、土蔵普請の地祭(地鎮祭)の勤めを小綱木村の当山派修験の成就院に依頼したため、これまで通り福寿院へ命じるように寺社奉行へ嘆願した願書。こうした檀家を廻る争いを記した文書は他にもみられる。
八幡別当泉明院届書清書画像
八幡別当泉明院届書 慶応4年(1868) 
福寿院・龍嶽の師である泉明院による寺社奉行への届出。弟子である福寿院が、戊辰戦争の形勢を窺いながら藩主の武運長久を祈願し、「御勝利之御祈祷」として百日間の修行をするという内容。