修験道とは古くからの山岳信仰を基礎として、仏教(密教)や道教、神道などの影響を受けながら平安時代末に体系化された日本特有の宗教であるといわれる。修験者は山伏とも呼ばれ、中世には各地を廻りながら山岳修行を行い、身につけた呪術的な力で加持祈祷などを行った。
 近世になると、江戸幕府は各地の修験者を京都の聖護院が支配する「本山派」と醍醐寺三宝院の支配する「当山派」というふたつの教団のいずれかに所属させ、統制を図るようになる。修験者は各村に定着するようになり、檀家や祈願者への祈祷を行ったり祭礼や芸能を伝えたりするなど、地域の暮らしや信仰に深く関わるようになった。こうした人々は学術的には「里修験」とも呼ばれている。
 江戸時代中期以降、会津では約230ヶ院にものぼる里修験が活動していたが、その大半が本山派修験であった。会津の本山派修験は総本山としての聖護院の支配のもと、さらに滝沢村(現・会津若松市)にあった大先達・南岳院の統制下におかれた。修験者は総本山や大先達から身分や活動を保証され、また「霞」と呼ばれる一種の縄張りをもち、そこで様々な宗教活動を行っていた。修験道では不動明王が本尊として多く祀られ、修験者は不動明王になり得るものと考えられていた。
 特に近世の修験者は自宅に本尊を祀った祭壇を設けたが、普段は庶民と変わらない生活を営み、必要に応じて祈祷や祭祀を行った。住宅も特別な寺社建築ではなく、民家の母屋や蔵などの一部に祭壇が置かれた例も多かった。
 福寿院(髙橋家)では蔵2階の畳敷きの部屋に祭壇がしつらえられ、祈祷などに用いられる法具や経典などと共に本尊が祀られていた(トップページのスライド写真参照)。さらに護摩壇をはじめ金剛杵や金剛鈴といった法具、鈴懸や結袈裟などの装束、法螺貝などの持物、さらに宗教関係の典籍や古文書などが一括して残されており、そのうち241点の資料が昭和62年3月に福島県の重要有形民俗文化財に指定された。
 しかし、現在、会津における古くからの修験はその活動を終えている。さらに過疎・高齢化の進む奥会津の地域において、多量のコレクションを含む文化財を継承するのは難しい。冬季には豪雪による毀損などの恐れもあるため、福島県立博物館が平成29年12月に文化財指定品を含む全ての資料を保全して、整理と調査を進めた。

不動明王立像(大)不動明王立像光背の墨書セイタカ童子セイタカ童子台座裏墨書
不動明王立像 萬延元年(1860) 
真ケ沢村の山坂屋儀助により寄進された福寿院の本尊。右手に三鈷剣、左手に羂索をもつ。
不動明王は大日如来が一切の魔を降伏するために忿怒の相を現したものといわれ、修験道では非常に重視された。
不動明王立像光背の墨書



制吒迦(セイタカ)童子立像
不動明王の眷属である八童子のうちの第八。背面及び台座には、寄進者として「天王前 多治右衛門隠居 中町村 金右衛門 出戸村 権太郎」の名が記される。
制吒迦童子台座裏墨書




コンガラ童子コンガラ童子台座裏墨書不動法
矜羯羅(コンガラ)童子立像
不動明王の眷属である八童子の第七。制吒迦童子と並び、不動明王の力に裏づけられて降魔をはかるという。
矜羯羅童子台座裏墨書
背面及び台座には、「滑澤村 高橋新右衛門 多治右衛門橋立村 仁左衛門」の名が記される。
不動法
不動法は本尊・不動明王を招いて供養し、修法者が本尊と一体になるとする修法で、修験道における祭りや祈祷の基礎となるもの。
不動護摩次第不動明王立像(小型)不動護摩私記
不動護摩次第 元和3年(1617) に書写したことを示す奥書がみられる。

不動明王立像
小型の不動明王像。祈祷の際に持ち運んだりしたためか、破損が激しい。
不動護摩私記
赤や黒の書き込みや貼り付けた付箋による追記などが多数みられ、実際に祈祷で使用したことがよく分かる。
金剛杵金剛鈴法螺
金剛杵
杵の形の両端に鈷をつけた法具。鈷がひとつの独鈷杵、3つの三鈷杵、5つの五鈷杵がある。人の煩悩をはらうものとされ、修験者の護摩祈祷などに用いられる。
金剛鈴
修法の際に用いる鈴。柄は金剛杵の形で、その一端に鈴をつけたもの。仏菩薩の注意をひき、歓喜させるために打鳴らされる。
法螺
フジツガイ科の巻貝の先端を削り、吹き口がつけられている。修験者が読経や合図などの際に吹くが、吹き方や回数などは場面に応じて異なる。その音は獅子吼に例えられ、動物や悪魔を沈黙させるものという。山伏十六道具のひとつ。
錫杖頭鈴懸と結袈裟檜扇柄鏡
錫杖頭
錫杖とは木製の杖の頂部に鉄製の6つの円環をつけ、揺すって音を出すもの。資料はその頭の部分。円環は六波羅蜜(悟りの彼岸に至る6つの修行)を示し、衆生をそれに導くものという。山伏十六道具のひとつ。
鈴懸と結袈裟
鈴懸は元々鈴をつけたことから名づけられた修験道の法衣で、密教法具を象った輪宝紋(八剣輪宝)が染め抜かれる。結袈裟は前2 本、後1本の三股に分かれた修験独自の袈裟。つけられた梵天(房)の色で位階を示した。山伏十六道具のひとつ。
檜扇
檜の薄い板を組み合わせてつくった扇。拝礼や護摩の火を煽ぐときなどに用いた。峰入りの際の正装として、山伏は檜扇を右腰に差した。山伏十六道具のひとつ。
柄鏡
母屋に置かれていたもの。



福聚院書上 安政6年清書画像
福聚院書上 安政6 年(1859)
大先達・南岳院に年貢地と除地を報告したもの。この年の18年前に「院家」が火災に遭い、本尊をはじめ多くの仏像が焼失したことが記される。その後、新たに「祈祷場」が建てられた。現存する本尊は後に寄進されたものであることが分かる。
由緒書奥川村にお座します神様
由緒書 明治19年(1886) 頃 
当主であった髙橋福江が記した福寿院の由緒。同家の由来を応永年間における白山妙理社の勧請に求め、近世最後の修験であった龍嶽まで19代を数えている。さらに地域のいくつかの神社の勧請について述べている。
奥川村にお座します神様と仏様に関する調査 昭和4年(1929) 
旧奥川村における神社仏閣や石碑、講行事などについて調べてまとめたガリ版刷りの文書。福聚院は藤原豊繁という人物の後胤であること、応永2年(1395) に羽黒山から当地にやってきたことなど墨書きで追記されている。