会津では地域の修験者を「法印さま」と呼んだ。農山村の法印は普段は一般の農民と同じように暮らしながら、地域の様々な要望に応える形で儀礼や祈祷を行っていた。その内容には、お日待ちや初午の屋敷神の祭りといった村や家の年中行事に関わるもの、家を建てる際の地鎮祭や病気平癒のまじないなど個々の機会に頼まれて行うものなどがあり、さらに講の組織や行事、それに伴う遠方の寺社への参詣などにも深く関わっていた。
 こうした地域の信仰や行事への関与は、神職や僧侶の役割とも重なりつつ、住み分けがなされていた。例えば当髙橋家の活動のひとつに地域の馬頭観音堂の祭りがあり、修験としての役割を終えた後も関わっていた。他にも、当家に残された資料のなかには出羽三山の札の版木や庚申講に関わる掛軸などもみられ、地域の信仰を幅広く支えていたことが分かる。

馬頭観音像馬頭観音台座裏墨書清書画像
大舟沢の馬頭観音像馬頭観音台座裏墨書
馬頭観音籤幟旗番頭観音版木
馬頭観音籤 明治22年(1889) 
阿弥陀籤ならぬ観音籤。馬頭観音の前で引いて吉凶を占ったもの。
裏書(右写真)によると、福聚院・福次(治)の代に使用されたもので、大舟沢の馬頭観音堂の祭礼に用いられたと考えられる。
幟旗 大正9年(1920)
新郷村は福寿院の在所である小綱木集落のある奥川村の南に隣接する村。馬頭観音信仰は周辺地域でも盛んであった。
馬頭観音の版木 明治18年(1885)・22年(1889)・26年(1893) 
版木は明治時代に龍嶽とその子・福次(徳行)が作ったもの。同家の法印は、世代を超えて地域の馬頭観音信仰に深く関与していたことがうかがえる。
馬頭観音札湯殿山百人講中仕払進覚帳湯殿山代参人別記載簿
馬頭観音の札


湯殿山百人講中仕払進覚帳 安政5年(1858)  
福聚院を先達として行われた「湯殿山百人講」による出羽三山への参詣の記録。代参者の名前や人数、道中の宿などが記されている。
湯殿山代参人別記載簿 昭和4年(1929)
湯殿山への代参にあたって集めた金銭の記録。「三山先達 福聚院」と記されている。地域では古くから出羽三山への信仰が厚く、湯殿(山)講や三山講などといい、籤などで決めた代表者が出羽三山へ代参を行った。
行衣出羽三山の版木
行衣
麻でつくられており、襟に「里先達 福聚院」と記されている。出羽三山への参詣の際、宿坊までの案内をする道中に用いられたものと思われる。

出羽三山の版木
月山神社を中心に、出羽(いでは)神社と湯殿山神社が並ぶ。出羽三山は古くから山岳信仰の聖地であり、ここを拠点とした修験者は「羽黒派」と呼ばれ、近世には本山派・当山派とは異なる地方修験のひとつとして確立していた。
春日待札十方信壇四節日待帳
春日待札拵表綴 明治28年(1895) ~昭和11年(1936) 
日待は各地で広く行われているものだが、周辺地域では修験の役割として大きなものであった。毎年の春日待に用意する札の種類と枚数が書き上げられている。
十方信檀四節日待帳 明治21年(1888) 
日待・月待とは特定の日に神を祀り、夜に飲食をしながら月の出や日の出を待つ行事。この記録から、正月、5月、9月、11月に檀家を一軒ずつまわり、祈祷を行って家の人数分の札を出していたことが分かる。
青面金剛図庚申講
青面金剛図 明治28年(1895) 
庚申塔造立記念に作られた掛軸。青面金剛の前に鶏と三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が描かれる。
庚申講は、庚申の日に三尸虫が人間の悪事を告げに行かぬよう夜通し集まり飲食する行事で、各地で盛んに行われていた。