庶民の生活に密着し、活動の場を広げた近世の修験道であったが、明治になると受難の時代を迎える。明治元年の神仏分離令や同5年の修験道廃止令によって、修験者たちはそれまでの宗教活動を禁じられ、神職や僧侶になるか、あるいは還俗(復飾)して一般の人に戻るかの選択を迫られた。
 戊辰戦争が終わり、会津藩から若松県へと地域支配のしくみも大きく変わる中で危機に直面した福寿院は、還俗と改名を若松県に願い出ている。幕末から明治初期の当主であった髙橋福江は若松の式内社である蚕養国神社の管轄下に入ることを許されたが、それを後押ししたのは、村の祈願所が消えてしまうことを憂えた小綱木村・大舟沢村・真ヶ沢村の住民たちであった。
 その後、旧本山派の多くは天台宗に所属することになり、明治10年代には福江も天台宗の教導職を命じられるようになった。さらに跡を継いだ福江の弟・福次(治)とその子・有がそれぞれ得度して「徳行」 「徳海」という法名を受け、 「福聚(壽)院」 として宗教活動を続けた。こうして地域に伝えられてきた信仰や行事は、明治以降も修験者によって守られていった。

福寿院願書 明治2年清書画像
福寿院願書 明治2年(1869)
龍嶽の長男である髙橋福江が復飾を願い出た文書の控え。神社をもつ別当寺は復飾を許されているが、神社を持たない当福寿院も復飾して従来通りの活動を許可してもらえるように嘆願している。
三か村壇中総代等願書清書画像
三ヶ村檀中総代等願書 明治2年(1869)
福寿院の霞であった小綱木村、大舟沢村、真ヶ沢村の肝煎・地首・老百姓・檀中惣代の計17名による願書。髙橋福江自身の願書にもあるように、同院の復飾を許可し、檀中一同の祈願の継続を若松県社寺方へ歎願した。許可する旨の付箋がつけられている。
若松県社寺方許可状清書画像
若松県社寺方許可状 明治2年(1869) 
福寿院の復飾・改名を許可し、しばらく式内社の管轄下に入ることを若松県社寺方から髙橋福江に命じた文書。
高橋福江願書清書画像
髙橋福江願書 明治2年(1869)  
復飾改名を許された髙橋福江が、式内社である若松の蚕養国神社の管轄下に入ることを願い出たもので、若松県社寺方が「聞届候事」という許可の付箋をつけている。復飾の願いから蚕養国神社帰属までの一連の手続きは、全て明治2年の12月中に行われている。
得度記法号補任状法名・法号補任状
得度記 明治23年(1890) 
髙橋福江の弟・福次(福治)は20歳のときに天台宗の僧侶として得度し、「徳行」の法名を受けた。
法名を授与した福井覚譲は若松にある天台宗・常光寺の僧であり、福次はここで修業したものとみられる。


法号補任状 明治25年(1892) 
髙橋福次(徳行)は得度した2年後に聖護院から法号「福聚院」の免状を受けた。修験の号は家ではなく人に与えられるもので、宗教活動を行う者は同じ家であってもそれぞれ号を受ける必要があった。



法名・法号補任状 大正14年(1925) 
福次の子である有は地域の小学校で代用教員などをしていたが、30代半ばで法名「徳海」、法号「福壽院」を聖護院から授与されている。
同時代に父・福次が「福聚院」として活動を続けていたため、一字替えて別の法号で活動したと考えられる。